#2「正欲」朝井リョウ

さて、夏休み二冊目は、朝井リョウさんの『正欲』である。…まだ二冊目?もう夏休みも終わるのに?とツッコまれそうではあるが、まあ、そこはぐっと堪えていただいて、「最初に意気込んでたけどやる気なくなっちゃうことってあるよね、わかるわかる」と、温かい目でそっと見守っていただけると大変嬉しい。(?)

そんなことは置いておいて、本の感想に移ろうと思う。

正欲

正欲

Amazon

(紹介文引用)

生き延びるために、手を組みませんか。いびつで孤独な魂が、奇跡のように巡り遭う――。
あってはならない感情なんて、この世にない。それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ――共感を呼ぶ傑作か? 目を背けたくなる問題作か? 絶望から始まる痛快。あなたの想像力の外側を行く、作家生活10周年記念、気迫の書下ろし長篇小説。

この物語は、生きづらさを抱えた登場人物たちの物語がそれぞれパート分けされており、それらが交互に展開されていく。メインテーマとして性的マイノリティ(性的少数派)が取りあげられている。私は以前から、マイノリティを救いたいという思いを抱いていた。しかし、本書を読んでその考えが根本から覆された。多様性社会に漠然とした夢を抱いている人は、是非手に取ってみてほしい。良くも悪くも、価値観がひっくり返るだろう。

ここからは、印象に残った文章を三つにジャンル分けして、それぞれ紹介したい。

 

1,「多様性を認める」とは傲慢である

p183 夏月は思う。既に言葉にされている、誰かに名付けられている苦しみがこの世界の全てだと思っているそのおめでたい考え方が羨ましいと、あなたが抱えている苦しみが、他人に明かして共有して同情してもらえるようなもので心底羨ましいと。

ネタバレを避けるため詳しくは語れないが、夏月は、世間が思う”マイノリティ”の枠にも属さないようなマイノリティであり、そのことを隠すために、他者が存在しない人生を歩んできた。そんな夏月が、いわゆる”普通”の悩みで嘆く人を見て、こう思うのである。

悩みを共有できることがどれだけ幸せなのか、世間の人たちはなかなか気づかない。”普通”の悩みを持てること自体がマジョリティの証なのだと気づかされた。

以下の文章も夏月パートから引用した。

p188 多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突きつけられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

「多様性」という言葉がポジティブな意味で捉えられ、蔓延している今日であるが、実際はとても残酷な言葉であると思い知らされた。多様性とは「想像力の限界を突きつけられる言葉」であり、自分が嫌悪感を抱くものが身近にいることを嫌でも自覚させられるという、怖ろしく、厳しい言葉なのである。安易に「多様性」を使っていた以前の私は、無自覚で、愚かだったことを痛感した。

 

以下の二つの文章は、4人の登場人物の一人である大也のパートから引用したものである。大也も、マイノリティ中のマイノリティであり、世間から隔絶した生活を送っている。

p299  お前が安易に寄り添おうとしているのは、お前が想像もしていない輪郭だ。自分の想像力の及ばなさを自覚していない狭い狭い視野による公式で、誰かの苦しみを解き明かそうとするな。

p339「理解がありますって何だよ。お前らが理解してたってしてなくったって、俺は変わらずここにいる。そもそもわかってもらいたいなんて思ってないんだよ、俺は」

この引用部分から、「理解する」という言葉に上下関係が存在していることに気づかされた。どういうことかと言うと、「理解する」には、”理解する側”と”理解される側”の二者がいることが前提であり、前者が上、後者が下という関係が自然と構築されている。「理解する」と言うことで、勝手にマイノリティの立ち位置を下だと見なしており、そこから”理解する側”の傲慢さが露呈している。

順番が逆になってしまったが、これを踏まえた上で一つ目の引用部分を見てみる。「誰かの苦しみ」をマイノリティの苦しみと言い換えるならば、マジョリティがマイノリティを理解しようとしても、結局は「狭い狭い視野による公式」、つまりマジョリティとしての経験や知識の蓄積から推測するしかないのであって、完全な理解は非現実的なことなのである。

度々私は「マイノリティを理解しよう」などと軽々しく使っていたが、それは根拠もない理想論を並べて自己満足していたにすぎないと気づいた。

 

2,マジョリティでもつらい

p324  みんな本当は、気づいているのではないだろうか。自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が“多数派でいる”ということの矛盾に。三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、“多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。

多数派の人は何も苦労せずとも多数派で居続けられると思っていたが、多数派を選び続けることでも少数派になるということに衝撃を受けた。多数派か少数派か、その白か黒かの二択できっちりわかれているのではなく、誰もが多数派であり、誰もが少数派であるのだと気づかせてくれた。

p341「そうやって不幸でいるほうが、楽なんだよ」
「選択肢がなければ悩まなくていい。努力だってしなくていいし、ずっとそうやって自分が一番かわいそうなんだって嘆くだけでいい。そうしてるほうが実は、何も考えないでいられる。向き合うべきものに向き合わないでいられる」
「そうやって全部生まれ持ったもののせいにして、自分が一番不幸って言ってればいいよ」

これはメインの登場人物の一人である、八重子のセリフである。八重子は異性愛者というマジョリティに属していながらも、あるトラウマがきっかけで異性愛について悩みを抱えている。

マジョリティには選択肢が用意されている分、向き合わないといけないつらさがあり、マイノリティには選択肢が無いことから、努力したって変わらない無効力感のつらさがある。そのつらさの種類は異なり、一概に比較できるものではないとわかった。

3,必要な繋がりとは

本書では”繋がり”の重要性について度々言及されている。

p287  生きていきたいのだ。
この世界で生きていくしかないのだから。

(略)それならば、今からでも、生き抜くために手を組む仲間をひとりでも増やしておきたい。

マイノリティの当事者間の繋がりを「生き抜くために手を組む仲間」という言葉で表現していて、とても印象的であった。自分の知られたくない核となる部分を共有し、生きるための方法を共に模索するような関係を「仲間」と表現しているが、マジョリティの間ではこのような深い人間関係は生まれにくいのではないか。このような強い信頼感・連帯感は絶対的なコンプレックスを共有していることで生まれているのだろう。そんな繋がりが生まれたら、生きづらいと感じていた人も生きる希望を持てるかもしれない。

一方、こんなセリフもある。

p125 社会的な繋がりとは、つまり抑止力であると。法律で定められた一線を越えてしまいそうになる人間を、何らかの形でその線内に留めてくれる力になり得ると。

ここで言う「社会的な繋がり」とは、マジョリティ・マイノリティに関係ない、広い範囲の繋がりを指している。マイノリティ同士の繋がりはマイノリティの生きる希望になり得ると前述したが、反対に、その繋がりの間での思考が過激化すると、犯罪に手を染めてしまう可能性もでてくる。よって、マイノリティ同士の狭い繋がりも必要だが、同じくらい社会との広い繋がりも必要なのであると言えるのではないだろうか。本書では、マイノリティの、マジョリティとわかり合えない苦しみが描かれていたが、その苦しみを抱えたままでも、最低限は接していかなければならない。完全に拒絶することはできないのだ。それが最適解なのかは自信が無いが、法律という絶対的なルールの下に生活しなければならない以上、そこは変えられないだろう。しかし、法律もマジョリティが勝手に定めた物であると仮定するならば、別の議論に発展することになりそうだが…そこまで書くとキリがないので一旦ここで止めておく。

 

まとめ

長々と書いてしまったが、本書の感想は、マジョリティ側からの視点、マイノリティ側からの視点によって、全く異なるものであると思う。読了したという方がいれば、是非感想を共有してほしいし(めちゃくちゃ読みたい!)、まだ読んでいないという方は、他の人の感想を読んでみてほしい。きっと救いにもなれば凶器にもなるだろう。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

#1「読書について」ショーペンハウアー

 大学が夏休みに入り、特に予定も無い私はひたすら読書漬けの休みを送ろうと決心した。幸い、コロナ禍において「おうち時間」が推奨されているため、待ってましたとばかりに図書館で借りてきた本を開き、一人で本に向かいながら活字を頭の中で咀嚼していくのである。

さて、夏休み一冊目は、本についての本だ。最近、小説を読んでも登場人物が頭の中に出現してこないという奇病を抱えている私は、もっぱら再読に励んでいたのだが、どうしても物足りない。そこで、今一度読書について真正面から向き合ってみようと思い直し、この本を手に取った。

 (紹介文引用)

「『読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ』……。率直さゆえに辛辣に響くアフォリズムの数々。その奥底には、哲学者ショーペンハウアーならではの人生哲学と深いヒューマニズムがあります。それが本書の最大の魅力です。」

 

紹介文からして私のメンタルをえぐりにきているのだが、本書の内容も、いわゆる”読書家“とされている人たちにとっては耳が痛い話であった。

印象に残ったのは、なんと言ってもこの冒頭部分である。


p8「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。なぜなら、ひとつの真実をほかの真実と突き合わせて、自分が知っていることをあらゆる方面から総合的に判断してはじめて、知識を完全に自分のものにし、意のままにできるからだ。」

 

私は天井まである高い本棚にぎっしりと本が並べられていたり、“積ん読”の山がいっぱいあって床も見えなくなっていたりする光景を見るのが好きなのだが、著者はそんな幻想を初っ端から批判している。心が折れた音がした。他にも引用すると、

 

p11「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。」

 

p15「思想家自身の考えは、オルガンの根音となる低音のように、つねに全体を支配し、決して異質な音にかき消されたりしない。これに対して、単なる博覧強記が取り柄の場合には、すべての音色がいわば音楽の切れ端のように迷走し、基音がもはやまったく聞き取れない。」

 

 p140「食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。」

 

 p145「悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読み過ぎることはない。」

 

p148「関係者たちが声高に大騒ぎして、毎年、何千もの作品が市場に出る。だが数年後には、『あの作品はどこへ消えたのか。あんなにもいち早く大評判になったのに、あの名声はどこへ消えたのか』という声を耳にすることだろう。」

 

このように、著者はひたすら受動的な読書を批判していた。これに関しては私も思うところがあり、本棚の片隅に並べられた、いつ読んだかもわからない本の内容を説明してほしいと言われて、言葉が詰まってしまったことがある。その時は上手く説明できない自分にもどかしさを感じ、悔しい思いをした。読書は本の内容を自分の頭の中で想像することでしか体験できない。その消滅性故に、在庫管理ができないのだ。従って、背表紙を見ても内容がありありと思い出される本と、そうでない本がある。著者は少ない冊数の本を網羅する読書を薦めているので、私のような、ムラがある読書というのは批判される対象なのかもしれない。

著者の薦める読書を完全に定着させるのは難しいが、これからは少しずつ能動的な読書を心がけていこうと思う。言葉を一言一言頭の内に巡らせて、対話するように本と向き合っていきたい。

一冊目にこの本と出会えて良かった。読書へ向かう姿勢を正される感覚になった。