#1「読書について」ショーペンハウアー

 大学が夏休みに入り、特に予定も無い私はひたすら読書漬けの休みを送ろうと決心した。幸い、コロナ禍において「おうち時間」が推奨されているため、待ってましたとばかりに図書館で借りてきた本を開き、一人で本に向かいながら活字を頭の中で咀嚼していくのである。

さて、夏休み一冊目は、本についての本だ。最近、小説を読んでも登場人物が頭の中に出現してこないという奇病を抱えている私は、もっぱら再読に励んでいたのだが、どうしても物足りない。そこで、今一度読書について真正面から向き合ってみようと思い直し、この本を手に取った。

 (紹介文引用)

「『読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ』……。率直さゆえに辛辣に響くアフォリズムの数々。その奥底には、哲学者ショーペンハウアーならではの人生哲学と深いヒューマニズムがあります。それが本書の最大の魅力です。」

 

紹介文からして私のメンタルをえぐりにきているのだが、本書の内容も、いわゆる”読書家“とされている人たちにとっては耳が痛い話であった。

印象に残ったのは、なんと言ってもこの冒頭部分である。


p8「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある。なぜなら、ひとつの真実をほかの真実と突き合わせて、自分が知っていることをあらゆる方面から総合的に判断してはじめて、知識を完全に自分のものにし、意のままにできるからだ。」

 

私は天井まである高い本棚にぎっしりと本が並べられていたり、“積ん読”の山がいっぱいあって床も見えなくなっていたりする光景を見るのが好きなのだが、著者はそんな幻想を初っ端から批判している。心が折れた音がした。他にも引用すると、

 

p11「学者、物知りとは書物を読破した人のことだ。だが思想家、天才、世界に光をもたらし、人類の進歩をうながす人とは、世界という書物を直接読破した人のことだ。」

 

p15「思想家自身の考えは、オルガンの根音となる低音のように、つねに全体を支配し、決して異質な音にかき消されたりしない。これに対して、単なる博覧強記が取り柄の場合には、すべての音色がいわば音楽の切れ端のように迷走し、基音がもはやまったく聞き取れない。」

 

 p140「食事を口に運んでも、消化してはじめて栄養になるのと同じように、本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えたことだけだ。」

 

 p145「悪書から被るものはどんなに少なくとも、少なすぎることはなく、良書はどんなに頻繁に読んでも、読み過ぎることはない。」

 

p148「関係者たちが声高に大騒ぎして、毎年、何千もの作品が市場に出る。だが数年後には、『あの作品はどこへ消えたのか。あんなにもいち早く大評判になったのに、あの名声はどこへ消えたのか』という声を耳にすることだろう。」

 

このように、著者はひたすら受動的な読書を批判していた。これに関しては私も思うところがあり、本棚の片隅に並べられた、いつ読んだかもわからない本の内容を説明してほしいと言われて、言葉が詰まってしまったことがある。その時は上手く説明できない自分にもどかしさを感じ、悔しい思いをした。読書は本の内容を自分の頭の中で想像することでしか体験できない。その消滅性故に、在庫管理ができないのだ。従って、背表紙を見ても内容がありありと思い出される本と、そうでない本がある。著者は少ない冊数の本を網羅する読書を薦めているので、私のような、ムラがある読書というのは批判される対象なのかもしれない。

著者の薦める読書を完全に定着させるのは難しいが、これからは少しずつ能動的な読書を心がけていこうと思う。言葉を一言一言頭の内に巡らせて、対話するように本と向き合っていきたい。

一冊目にこの本と出会えて良かった。読書へ向かう姿勢を正される感覚になった。